図1に、エネルギー3MeVの陽子ビームによるPIXEで得られた人の血液のX線スペクトルを示す。亜鉛、銅などの微量金属元素が確認できる(イットリウム元素は含有量を調べる為に、加えられたものである。)これらの特性X線は、陽子が血液中の亜鉛、銅の原子と衝突して、発生されたものである。又、これらの特性X線のピークの下に広がっている連続のバックグランドは、3MeVの陽子衝突によって試料から発生したもので、PIXEの検出限界を決定する重要な因子である。以下に、特性X線、連続バックグランドの発生メカニズムについて説明する。

図2の左図で示されるように、原子は、K殻、L殻、M殻と呼ばれている原子核を中心にした殻(内殻)構造を持ち、この順番に内側から電子が配置されている。この殻の軌道半径は、原子番号が大きくなるほど小さく、その束縛エネルギーも大きくなる。内殻電子が飛び出すと、その軌道をそれより外側の軌道電子が埋める。このとき束縛エネルギー差の分のエネルギーを電子はX線(特性X線と呼ばれる)として放出するか又はそのエネルギーで他の外殻電子を飛び出させるかする(飛び出した電子はオージェ電子と呼ばれる)。内殻を電子がX線放出して埋める割合を蛍光収量と呼びωで表わす。K殻を埋めるときの特性X線はK−X線、L殻はL−X線と呼ばれ、これらの特性X線のエネルギーは原子番号が大きくなると大きくなる為、図1のように各元素の特性X線のピークが区別されて現れる。
内殻電子はクーロン力という電気の力で原子の核に束縛されている。糸で結ばれた球が円を描いて回っているようなものである。内殻電子はその束縛エネルギーより大きなエネルギーをもらうと糸が切れて原子から飛び出すことができる(内殻電離という)。陽子は電子に比べて約1800倍も重い、したがって入射粒子が陽子などの重荷電粒子の場合、図2の右上図のように内殻電子はいきおいよくぶつかると、跳ね飛ばされて電離される。これは、ある速さ以上でぶつからないと束縛エネルギーよりも大きなエネルギーを得られない。また、入射粒子の速度が低くなるにつれて、より速い速度で衝突しなければ電離されるエネルギーを得られない。PIXEで用いられる入射粒子のエネルギー領域では、ほとんどこのような衝突で電離が起こる。しかし、入射粒子のエネルギーを高くすると図2の右下のように静止している電子もはじき飛ばされて電離されることが出来るようになる。

内殻電子は、原子の核からある一定の半径をほとんど回っているが、その半径の内側を回ったり、外側を回ったりする。内側(外側)にいる頻度は内側(外側)になるに従って少なくなる。また、内側になるに従ってクーロン引力が強くなるのでより早く回り、外側に行くに従ってより遅くなる。したがって、入射粒子のエネルギーが低くなるとその速度も遅くなり、内殻電子が電離されるのは存在確率の低い内側となるので、入射エネルギーの減少とともに、内殻電子の電離確率または電離断面積
は減少する。
K殻電子についてはその電離断面積
は、経験と理論から、PIXEで用いる入射エネルギー領域は、
・・・・・・・・(1)
で近似される。ここで、
、
、
は入射粒子の荷電数、質量、エネルギーであり、
は電子の質量、
はK殻電子の束縛エネルギーである。
は約4の値をとる。一般に、電離断面積
は入射エネルギーに関して単調な関数である。
K-X線の発生断面積
は、
・・・・・・・・(2)
となる。L‐X線の場合は、L殻電子の副殻間の遷移を考慮した式になる。
重荷電粒子衝突による内殻電離は、クーロン力による相互作用によって引き起こされるので、その断面積は電子衝撃のものと比べると同程度である。図1の特性X線のピークの下に横たわる連続のバックグランドの源は、2種類ある。X線の高エネルギー領域まで広がっているバックグランドは、血液中に含まれるナトリウム原子の原子核と入射陽子との核反応で発生したガンマ線が半導体検出器の内部でコンプトン散乱し、その散乱された電子エネルギーのスペクトルである。このバックグランドは、入射エネルギーを高くすると問題になるが、陽子3MeVではナトリウムを含まない試料ではあまり問題にならない。図1で亜鉛のK-X線のエネルギー以下では、大きな連続のバックグランドが見られる。PIXEでは、このバックグランドがその検出限界を決定する主原因となる。このバックグランドは、入射荷電粒子とターゲット中の原子、原子核、電子との間で発生する制動輻射X線
2) である。PIXEの場合のこの制動輻射X線の発生断面積は、電子衝撃のそれの約1000分の1以下である。この理由で、PIXEと電子衝撃X線では、内殻電離断面積が同程度でも、PIXEの方が圧倒的にバックグランドが小さいので、検出感度が上がり微量元素分析できる。
図1では示されていないが、この2つのバックグランドの他に、試料中の原子核とのラザフォード散乱された入射粒子が半導体検出器に直接飛び込み、非常に大きな信号を発生してX線エネルギースペクトルに複雑なバックグランドを形成することがあるので注意しなければならない。また、特性X線のパイルアップも連続のバックグランドを形成する。さらに、特性X線のピークの低エネルギー側に広がる検出器の応答関数も連続のバックグランドになる。
ビームが試料平面に対して一様に分布し、定量しようとする元素
(一様に分布しなくてよい)のビーム方向の分布の幅でのビームエネルギーの損失が近似的に無視できるような場合は、ビームスポット
内の試料中の元素
の個数
は、検出される元素
の特性X線のカウント数
と次式で結ばれる。
![]()
ここで、
は検出器の立体角、
はビームスポット
内に照射された入射粒子の全個数、
は検出器の元素
の特性X線に対する検出効率、
は試料から検出器までの間で特性X線が吸収された場合の吸収率である。この式によって、試料中の元素の量を絶対的に定量することができる。
試料を均一化し内部標準元素
を一様に混入させて、内部標準元素
の特性X線のカウント数との比から含有量を求める方法(内部標準法と言う)、
![]()
が、一般的に用いられている。この方法では、照射入射粒子数、検出器の立体角を測定する必要もなく、またビームは試料平面で一様でなくてもよい。
束縛エネルギーは原子番号が大きくなるに従って大きくなるので、(1)式からPIXEにおける特性X線の発生断面積は分析される元素の原子番号が大きくなるに従って小さくなる。
軽元素の特性X線の発生断面積は大きいが、検出される特性X線量の収量は少ない。この理由は、検出器の検出効率にある。PIXEではSi(Li)半導体検出器が使用され、薄いベリリウムの膜を通してX線が測定される。この膜のX線の吸収のおかげで、炭素、酸素、窒素などの軽元素のK−X線は測定できない。生体試料では、これら元素が主成分元素なので測定されればあまりにも大きな信号になり微量元素の検出のじゃまするので、むしろ測定されない方がよい。PIXE分析法が生体試料分析に適しているのはこの理由による。金、ウランなどの大きな原子番号わ持つ元素のK−X線発生断面積は銅、鉄のK−X線発生断面積より4〜6桁小さい、このような大きな原子番号をもつ元素の場合は、K−X線よりもL−X線を測定することによって銅、鉄と同程度の感度が得られる。
入射粒子としては、陽子の他にアルファ粒子、重イオンなどが考えられるが、(1)式でわかるように内殻電離断面積は核子当たりの入射エネルギーに依存する。例えば、陽子3MeVの電離断面積と同じ電離断面積をアルファ粒子で得る為には(1)式に従うと8.48MeVの入射エネルギーになり、核反応のチャンネルが開き、コンプトンバックグランドが増えて検出感度がさがる。しかも、陽子より単位長さ当たりのエネルギー損失も大きいので試料に与える損傷が大きい。従って、PIXEに用いられる入射粒子としては、陽子が適している。特に、大気中にビームを取り出してPIXEする場合は、飛程の長い陽子が最適であり、生体試料などへの損傷も小さい。
制動輻射X線の発生断面積は入射エネルギーが減少するとともに減少するが、特性X線の発生断面積の方がより減少するので、入射エネルギーを減少させると検出感度も下がる。一方、入射エネルギーを増加させると特性X線の発生断面積は増加するが、核反応のチャンネルが多数開きガンマ線が多く発生しコンプトンバックグランドか増加し検出感度がやはり下がる。理論計算によると、陽子ビームを用いたPIXEでは、3MeVの入射エネルギーが最適である。